ばんこ

2021 年 8 月 7 日

8/2

昨日からいろんなことを思い出しては泣いてるんですけど、その都度、あやかとかナホとか友達に時間も相手の都合も無視して連絡しそうになり、いい加減うるさいかなと思いまして。

とはいえ、Twitterに気持ちを流し続けるのも、関係ないみなさんに心配かけてしまうから避けたくて。

ここしかないんだよな。自由になんでもかけるところ。

この記事は、今の気持ちをただ吐き出したくて書いています。誰かに向けて書いているわけではないので、楽しくもなんともない記事です。

私は、すぐに忘れてしまうから、書いておかないと。実際昨日のこと、あんま覚えてないです。

今日も、目が覚めたらまだ5:30だったのだけど、悲しくて泣いて、もう眠れなくなったので、そういえば写真とかあるかなと探しました。ほぼ実家で全然なかった。後で載せます。

昨日のこと。ばんこさん、永眠。

それは一昨日か。昨日のお昼頃。

いつも通り仕事をしていたら、ばんこからLINEが来ました。

9月にディズニーシーの周年イベント行こうと話していたので、「日程変更して」とかかなーと思って、通知は確認したけど一旦保留にしました。

仕掛かりの仕事が終わって、LINEを開くと、バンちゃんのお姉さんから、彼女の訃報を知らせるメールでした。

その直後の気持ちとか覚えてません。

「ご愁傷様です」とか「ご冥福お祈りします」とか返信するのが正しいのでしょうが、なぜか「ご連絡ありがとうございます」と返信してました。

この二つ、まだお伝えしてないや。明後日のお通夜でご遺族に直接伝えよう。

あやかとのLINEを見返すと、本当に気が動転してて「明日一緒に行こう」と真っ先に伝えているのにそのあと、お通夜今夜かと思ったと書いています。実際のお通夜は連絡があった8/2から中3日あけた8/5です。

後で書きますけど、私がばんこと初めて会ったのは、the OYSTARSがメジャーデビューした1996年かその翌年くらいだと思います。

最近は二人でディズニーに行くことが多かったから、多分当時の共通の友達や知り合いのなかに、連絡が届かない人もいるだろうと、「音楽関係の共通の知り合いには連絡します」とお手伝いを名乗り出ると「助かります。ありがとうございます」とのお返事をいただいたので、ともねぇ、なほ、hiromiさん、OYSボーカルの修さん、OYSの元マネージャーさんは別件でやりとりがあったので併せて。ばんこの音楽関係だと、OYSだけじゃなく、最近では玉置浩二さんのライブによく行ってたみたいだけど、仲が良かった人とかわからないなと思いながら、自分のできる範囲に連絡をして、それぞれと思い出話をチャットや電話でしました。

40過ぎてからでもこんなに泣くものなの? と冷静な私が客観的に思うくらいずっと泣いてました。泣き過ぎて脱水気味になったので、コロナワクチン副反応のために買っていたアクエリアス飲み切りました。

泣き過ぎて頭が痛くなったので頭痛薬飲みました。

お昼を食べる前に連絡を知ったので、食事とってなかったと、席を立ったら突然の吐き気に襲われました。小さい子供が泣き過ぎて吐くのは聞いたことがあるけど、人間泣きすぎると吐きそうになるんだなと、冷静な私が客観的に思いました。

お通夜、告別式の参列はOKとのことなので、そのあとは「友達 お通夜 40代 服装」とか調べまくりました。

知らないことばかり。

お通夜に喪服で行くのはOK

ツイートしちゃうくらいびっくりしました。お通夜に喪服や礼服で行くのは「待ってた」ように受け取れるのでNGだと信じて疑わなかったのです。以前のお通夜は、亡くなった当日や翌日だったのに対し、今は数日後になったので喪服で行くのが当たり前になっているそうです。参考にしたサイトを再度調べてリンクを貼る気力はないのですが「日本では長らくお通夜に喪服はNGと言われていました」と相当過去の考えのように書かれてました。。そうだったんだ・・。

ばんこに会いに行くんだから、気持ち的にはおしゃれしていきたいところだけど。

前に甥っ子の運動会か何かに行くことになったとウキウキ話していたことがあって、その時も甥っ子に「地味な格好できて」と言われたけど「地味な格好って何?」って悩んでいたので、黒グレー白ベースのコーディネートをおすすめしたことがあったんだけど、その時も「赤の口紅は絶対譲れない」と言ってて。

私は口紅あまりつけないのですが、最後くらい、喪服は譲っても真っ赤な口紅つけてったら、「なにそれ、ちなちゃんー!」って笑うかな。と思ったんだけど、今は常時マスクで見せられなかったです。

さっき、直近のディズニー写真見てたら、マスクからでもわかるくらい口紅してたよ。ばんちゃん。

食事の時、マスク外したら内側にくっきり跡がついてたの覚えてます。逆にマスクするなら真っ赤な口紅もありかな。と書きながらもまた涙出てきました。

お通夜と告別式

お通夜と告別式も調べました。私のイメージでは、お通夜は、知人友人知り合いとにかく誰でも弔問に来ていいもののイメージでした。時間も夕方から。弔問は人が途絶えたら終わりでその後は、夜通し家族が起きたまま、火を灯さずに過ごすものかと。

調べると、お通夜は親しい友人で、告別式が同僚や知人が参加するもので、親しい友人は両方参加するんだそうです。

私はそこまで調べる前に、お姉さんにLINEで「ご迷惑でなければ、お通夜、告別式伺いたい」と連絡していて「賑やかなことが好きな妹だったので喜ぶと思います」と返信いただいてました。

なので気持ち的には両方行きたいのですが、コロナのご時世もあるし、ワクチン2回打ってるもののまだ抗体できていないので、あやかとお通夜だけにしようかと話しています。

通夜と告別式、両方参加するか、告別式だけ参加するかが一般的のようですが、告別式は昼間が多いので、お通夜だけでもいいそうです。

私が知っているばんこは、本当にばんこの中の一部でしかなくて。自分も相当カオスな人生を送っていると思っていますが、ばんこの人生も、履歴書作ったらすごい項目いっぱい埋まるくらいいろんな職種を経験しているし、その中でも、夜のお仕事していた時から今に至るまでは波乱万丈というか。

本当ならこの先ももっともっと豊かで鮮やかな人生を送れるはずだったんだけどな。いや、その話はまた後で。

そんなわけで、感染爆発しててデルタ株が猛威振るってるコロナ禍じゃなければ、夜通しの弔問客じゃ収まらないくらいの交友関係がある人なのです。

私が心配してもしょうがないけど。1回くらいプロレス見に行ってれば誰かと繋がれたのにな。だって、プロレス怖いんだもん。痛そうなんだもん。「絶対楽しいしハマるよ」って言ってくれてたけど。プロレス繋がりの皆さんにも届いているといいな。

こんなタイミングだけど。わいわいできないし、食事もできないけど。密になれないけど。賑やかに送ってあげたい。そしてまた泣く。昨日から泣き過ぎだわ。でも、まだ実感はないんだけど。

テレワークの弊害

昨日の夜は、ベッドに入ってみるものの、暗闇の中でいろんなことを思い出しては泣きじゃくって。泣き疲れて寝てしまったので、朝目が痛かったです。

朝も、5:30くらいに目が覚めて、目が痛いことでまた現実を突きつけられて泣きました。

うちのベッドルームに普段使わないものを保管している場所があります。10〜20代の追っかけをしていた頃の写真はほぼ実家に置かせてもらっているのですが、一部持ってきていたようなと探しました。

ばんちゃんが写っている写真、これしかなったです・・・(笑)

メンバーと自分以外ぼかしかけてますけど、黒猫さんのところにばんこがいます。

え? 待って。今って何年? 2021年? 22年前ですって。っていうか、あれなの? 広島出身のバンドってこういう時につけるネーミングセンス壊れてるの? 「続・ポルノグラフィティ」ってなんだろうね。

テレワークについて書こうと思ったのに、また脱線してしまいました。

一晩経ったのですが、今日も今日とて。昨日は、仕事効率めちゃ落ちつつも牛歩のように、メールを送るにしても指差し確認5回くらいしながらやってます。

「明日からは仕事頑張ろう」と思っていたのに、一晩じゃ全然立ち直れなくて、今日も今日とて。気を抜くと、ぼーっとしていたりご飯食べてる途中で別のことして全然食べてなかったり、到底日常に戻ったとは言えません。

こうして文章を書き殴るのも心の整理をつけるためなのかもしれないです。

何年か前に友達が亡くなった時は、訃報を聞いたのが遅くて、お通夜が翌日とかだったので、共通の友人10人くらいで弔問させてもらって。その場で思い出話もたくさんして。

翌日は朝から会社に行かないといけなくて、いけば、彼のことを知らない人がいつも通りに賑やかに働いているので、気が紛れてたのはあったと思います。

テレワーク、仕事に支障があるとは感じなくなってきていましたが、こう、非常時に、出社するって大事なんだなと思いました。正直、ずっと一人で家にいるのはきついぞと。

とりあえず夕方、買い出し兼ねて散歩に出かけたけど、それでもぼーっとしてしまって、自ら「あ、これは危険だ」と思って早々に帰ってきました。

今の東京は、コロナの猛威が本当にひどいので、うっかり交通事故に遭ったり階段から滑り落ちたりしても、病院や救急車に多大な迷惑をかける状況らしいので、家にいるのが一番いいんですって。

アメリカとかでロックダウンしていた時は、家からでちゃいけない上に、コロナで友達が亡くなった人とかたくさんいたんでしょ? きついですね。キツかったですね。お通夜とかでも本人に会うこともできないんでしょう。

こんなこと、そうそう起こってほしくないし起こらないことだけど。きついなと。

時間が解決するのはそうだと思うんですけどね。ちょっと時間が長くかかりそうだなと思います。

お通夜に行けば、少しは区切りにできるのかな?

お通夜までの日々

4日は午前中、オンライン会議があり、新しいお仕事をたくさんいただいたので、慌ただしく過ごせました。といっても、注意力が散漫になっていることは自覚していたので、メール一つでも念入りにチェックしてました。

夜、お香典の用意をしました。「いやだよぉ。。」って自分の声に泣きました。ばんこ、いやだよぉ。。

10〜20代の思い出*

そのうち、あやかから大量の写真が届くようなのでそこでもっと鮮明に思い出すこともあるのでしょうが。

上にも書きましたが、初めてばんこに会ったのはOYSTARSがデビューした1996年の翌年にあった、ファンクラブイベントだったようです(あやか談)。メンバー4人のチームに分かれて、ゲームとかして遊びました。

私は竜司さんのチームで、ものまね対決の時にステージに挙げられて、咄嗟に篠原ともえさんのものまねしました。その時別チームでステージに挙げられたのが、ともねぇだったんですよね。彼女はボーカルのオサムさんのコスプレしてて、ステージ上で話したのが出会いです。

モノマネコーナーが終わって席に戻ったら、前の席かな? とにかく近くにいたばんちゃんが「あんた面白いね」みたいに声かけてくれたのが出会いだったと思います。

静岡の田舎から、初めて参加した「アーティストのファンクラブイベント」で突然声をかけてくれた「東京の最先端の女の子」という印象でした。

そこで連絡先を交換したのかなぁ。どういうきっかけで仲良くなったのかわかりませんが、東京に知り合いがいるのは地方在中者から見たら心強いもので、音楽の楽しみ方、ライブの楽しみ方を指南してくれたのはばんちゃんだし、ライブの後おうちに何度も泊めてもらいました。泊まったと言っても、二人でバンちゃんのお家の近くのツボ八に行っては、ポテトをつまみにビール飲みまくって、「二人であんなに飲んだのに安かったー」とか言いながら、ほぼ朝方ばんちゃんのおうちに帰って倒れるように寝てました。

ビール苦手だったんだけど、ばんちゃんが「たくさん飲めば呑めるようになる」との持論を展開して克服しましたw(良い子は真似したらダメです。絶対ダメ!)

オーストラリア留学も、ポルノで台湾行った時もそうなんですけど「当然のように実行する人がいる」と、自分にもできるんじゃないかと思い込むところがありまして。

「当然のように全国のライブに行く」ばんちゃんを見ていたら、気がつけば立派な「追っかけ」になっていたわけです。

the OYSTARSというスーパーバンドがリリースしたのは、シングル7枚。アルバム4枚。たったそれだけ?と思いますが、1996〜2001、5年間の活動期間を考えれば多いのかもしれないですね。でも、10代の最後から20代のはじめという、多感な時期を過ごした音楽なので、とても濃厚な時間でした。

OYSTARSに勝手に背中を押されて、その後のラジオのお仕事とか、オーストラリアの留学とかできたと思っています。いろんな意味で今の自分を作った大切なバンドだし、その音楽の楽しみ方を教えてくれたのは、間違いなく、伴美保子さんです。

OYSTARS休止前のラストツアー「Oy Tour」は多分行ってると思うんですけど、その頃からラジオ番組のパーソナリティに向けて動いてたり? もうラジオやってた頃??? いやもう終わってオーストラリア留学の準備に入っていた頃かな?????

休止を発表した最後のライブには行ってないんですよね。休止が発表されたことは後から知って、少なからずショックは受けたけど、その時はライブに行くより、オーストラリア留学の夢を追いかける方が楽しかったので、過ぎたことは仕方ないかなと思ってました。

でも、オーストラリアにはOYSのアルバム4枚とも持っていって、向こうで辛いことがあると聞いてました。

休止が発表されたころは、OYSTARSだけじゃなく、this icとか、かわらだゆたかくんとか、OYSTARSと対バンした繋がりでたくさんのインディーズ系音楽を聴くようになって世界が広がっていたんですよね。なんだっけ?吉祥寺で路上ライブしてた2人組の人たち。。モッチとかいた。。毎週吉祥寺に通って、そこからさらに知り合ったクレべくんとか、小西ヒロキくんとか、Y’s BAR(こっちは聖蹟桜ヶ丘)のみんなと知り合ったんですよ。

そうだなー。オーストラリアに行く前はこっちのみんなと仲良くて、東京に行ったら高田さんのお家に泊めてもらってましたね。。高田さん、オーストラリアにまで手紙くれてほんとうれしかったなー。みんな元気カナー? 聖蹟桜ヶ丘の前は、this icの誠にぃにぃが働いてた六本木のバーをホテルみたいにして怒られてましたね・・ごめんなさい。マスター。

ばんちゃんとは、この頃は完全に疎遠でした。喧嘩したとかじゃなく、それぞれの道を歩き出した頃だったんだと思います。

後で再開した時に、ばんちゃんは「(OYSTARSで繋がった友達を)切った」って言ってたけど、私は切られた覚えはなく、OYSTARSから別の音楽に興味が移って、ばんちゃんとは会わなくなっただけで。趣味で繋がった人とはそんな感じなのかなって思ってました。

その後私は、オーストラリアに留学して、26か27の時に東京に移り住むことになるわけです。

30、40代の思い出

何かのきっかけがあったわけではないと思うのです。

ラジオの。。K-MIX HOT30の最終回は特別回で、いつもはK-MIX本社のサテライトか静岡市のスミヤにあったサテライトスタジオで放送していたところを、東部エリアでの最初で最後の放送だったんですよ。その時OYSTARS繋がりで仲良くなったともねぇとあやかの二人がサプライズで遊びにきてくれたので、なんだかんだばんちゃんと疎遠になっていたのは、そうだったのかもしれないなーとは思います。

ともねぇとるいちゃん(るいちゃんはヒロシミーズ、WoL繋がりのお友達)はオーストラリアにもきてくれました。

で、自分の中では、やりたいことの区切りがついて、東京でシクシクと働き、日々を過ごしていた30代。

なんのきっかけか、ばんちゃんから連絡がありました。「久しぶりにあやかと3人でご飯に行かない?」という感じのお誘いだったと思います。

このブログを遡ったら、草津温泉に行ったのが2014の冬だと思うので、再会したのは2013とかその辺かなぁ? すごく曖昧です。

1回ご飯食べに行ってすぐに温泉旅行の話になったわけじゃないと思うし、会っていたのも数ヶ月に1回くらいだったと思うので(この辺もすごく曖昧)、私が35か36くらいの時に、ばんちゃんやあやかと再会したのかなぁと思います。曖昧ですが。

そこから、あやかと3人だったり、ばんちゃんと2人だったり、ご飯を食べに行くようになりました。

近況や、会わなくなった10年間、どんなことをしていたのか、OYSTARS追っかけ時代の笑えるエピソードとか、話は尽きることがなかったです。

これもまた、どんなきっかけからかわからないけど、温泉に行こうとなり、草津に行きました。ともねぇの誕生日プレゼントを3人で選んだので冬でしたね。2015の年明けかな。2014の冬と一緒か

3人で会うと10代から20代の多感な頃に戻れて楽しかったです。ほんと、お箸が転がっても爆笑できるあの頃。あやかの写真だけ、雪が綺麗に収まらなくて大爆笑。

ほんわかと聞いてた、闘病のことも、温泉で詳しく聞いた気がします。闘病中、ゆずの「栄光の架橋」にすごく救われたと聞いたのは温泉だったかな? 私がゆずのメンバーになった時かな?

温泉から帰ってきても、定期的にご飯に行きました。スカイツリーのおしゃれなレストランに行ったり、手掴みでカニを食べるお店に行ったり、ばんこが世界一美味しいというパスタ屋さんに行ったり。ランチが多かったけど、美味しそうにビールを飲んでましたね。

私はその後お仕事なのに少し嗜んでしまったり。。えへ。

人混みが苦手なばんちゃんに、なんとか、生で栄光の架橋を聞いて欲しかったのですが、ゆずのライブは、なかなかに大きな会場が多く難しかったのです。そこでプレミアムライブなら、ドタキャンになってしまっても、無料ライブだから、ばんちゃんに罪悪感ないだろうし、代わりに行きたい人は当日でも見つかると思っていたので、2018のパシフィコと、2019の伊藤園、一緒に行きました。

2018は残念ながら栄光の架橋はなかったものの、マスカットとかタンバリン叩いて踊って楽しめる曲もあって、すごく楽しんでくれたからよかったです。

2019年は、おーいお茶30周年記念も兼ねていたのでライブだけじゃなく、おもてなしイベントも、開演から余すことなく楽しみました。

本人の許可を得てた写真を再掲。

治療の一環でストレス耐性がなくなっていて、人混みが苦手と聞いていました。前の席や、センターの席だったら参加できないと言われていましたが、2018年2019年のどちらも奇跡的に通路側で、2018年の時は非常口がすぐ隣だったから参加できたんですよね。ま、心配した発作が出ることなく楽しんでました。よかった。

2019年の10月って、コロナ直前ですね。。もっと前な気がしてましたが、そうか。このイベント、ギリギリのタイミングだったのですね。コロナ以降、客入りのライブしてませんもんね。ゆず。

栄光の架橋歌ってくれて嬉しかったなぁ・・・ばんちゃんももちろんすごく喜んでくれたけど、私も過去一うれしかったです。栄光の架橋のイントロから泣きましたもん。

この頃のライブでは、栄光の架橋はお客さんが歌うことが多くて。でも、ばんちゃんには「ゆずが歌う栄光の架橋」を聞いてもらいたかったから、心の中で強く強く、北川さん。。歌って。。。と祈りました。通じたのか、そもそも、会場にはゆず以外のお客様も多かったからか、「ゆず二人の栄光の架け橋」でした。実は貴重だったんですよ。

他にも、東京オリンピックの開会式でも披露していた市川海老蔵さんのステージもありました。ちょっと詳しいことは分かりませんが、「本人は知ってるけど海老蔵さんのちゃんとした歌舞伎は初めて見たー」と喜んでいたので、ひなちゃん時代の話かなぁ? となんとなく察してました。

ちなみに、草津の前か後か忘れましたが、あやかと3人でご飯に行った時。その直前に私が一人でディズニーインパしてて、二人にお土産を買っていったことがあるんです。

私は、過去の投稿でも何回か書いていると思うのですが、一人ディズニー派でして。それも、元ユビキタスコアの部長さんから、一人ディズニーの素晴らしさを熱弁されて、ペアチケットを一人でランドとシーに(別日)行ってからハマったんですけど。

で、二人にお土産を渡した後、一人で行ってきたと話したら、ばんちゃんは「あり得ない!!」と全否定してました。でも、それまで知らなかったのですが、あやかも一人ディズニー派で、年パスも持ってるという私よりよっぽど強者のディズニーマニア(?)でした。

3人しかいない中、2:1で一人ディズニー推し優勢という珍しい状況になり、二人の説得で、ばんちゃんもディズニーに興味を持ってくれたようでした。

少し経って、ばんちゃんから、一人でディズニー行ってみて、年パスも買ったと報告があって驚いたものです。そこからは、私の方がばんちゃんに指南を受けてディズニーを楽しむことになりました。

あやかと3人で行くこともありましたが、ばんちゃんと二人でディズニーに行くことも多かったです。

2020年、コロナ禍になり、音楽やスポーツなどのエンターテイメントが制限される中、人数制限はあれど開演していたディズニーには感謝しかありません。

そして、ばんちゃんの様子をみると、あっという間にディズニー仲間を増やして楽しんでて。一人で行ってもパーク内で友達に会える、もちろん友達と行っても楽しいディズニーの存在に本当に助けられていると、何度もお礼を言われました。

私も、ばんちゃんと仲良くしてくれているディズニー仲間の皆さんに本当に感謝していました。

コロナ禍になったら、私自身も我慢を強いられることになりましたが、ばんちゃんが誘ってくれるディズニーが息抜きで楽しみでした。

2021年になってからも新年、春と2回一緒にインパしました。閉園ギリギリまでソラニン何回乗れるかチャレンジしましたね。

私が「靴脱ぎたい」って言ってもばんちゃんに止められて「夏になったらサンダル脱いでいいから、今日はまだ我慢しなさい」と。夏にインパするのは当たり前のように話したよね。

4月のディズニーで、私にとってのコロナ禍での2大ささやかな楽しみの一つになっている会員制の馬肉レストランがあるのですが、ばんちゃん行く? と誘ってみました。

感染対策はもちろんしているお店ですが、地下なのでちょっと息苦しさがあるかなとか思って誘うの躊躇していたのですが、ずーーーーーっと前から、ばんちゃんを誘いたいと思っていました。

最近体調もいいと言うので、思い切って誘ってみたら「いく!」と即答。嬉しかったな。

5月はまだコロナが猛威を振るっていて、道中の移動もあるので、もしばんちゃんからお母さんに感染したらと、お母さんのワクチン接種が終わるまで様子見するとの返事でした。

もちろん!お店はずっとあるからまた誘うよ!!と言っていたのですが。。残念。

6月の入院になった時、退院したら、シーの20周年行こうね、と話していて、実際、9/3に一緒に行く約束もしてました。

周年記念のグッズが出るから散財する!!と言ってたことからも、周年で初めてのインパかな? と思って今公式見たら、周年イベントは9/4からってなってるぞ?ん?どういうことだ?ばんこ???

もう聞けないけど、どゆこと?笑

ミラコスタは9/3からスペシャルメニューを提供ってあるから、グッズは1日前から販売されるのかな。。そんな公式じゃなかなかわからない情報を、当たり前のように知ってて、そんな貴重な日に指名してくれてたんだねぇ。ありがとうね。ばんこ。

4月にインパした時、偶然ばんこのディズニー友達とパーク内で会って、私のことを紹介してくれたです。「私の幼馴染」って。

幼馴染って、生まれた場所が一緒にで幼少時代を一緒に過ごした人というイメージがあったから、「幼馴染?」って聞き返したら「10代から知ってんだからもう幼馴染でしょ」って言ってくれて、こそばゆいような嬉しい気持ちでした。

彼氏彼女になった時みたいに、関係性に名前がつくとちょっと嬉しくなるみたいな。

あ、ばんこは、私の幼馴染なんだ。って。へへへ。

ばんちゃんは、そうやって、欲しい言葉を、ぽんと、考えもしないところからくれる人でした。あと、気遣いがすごい。

草津に行った時も、ホテルに戻る途中のタクシーで「コンビニに寄ってください」と言って、私はホテルで飲むお酒やおつまみを買ったのだけど、ばんちゃんは何も言わずにドライバーさんに温かいコーヒーを買ってて、年下なのにそういう、私が考えもしなかった気遣いができる人だと尊敬してました。

声が大きいところとか、突発的な言動に驚かされることも振り回されることもあるけど、姿勢がいいところとか、所作が美しいところとか、ひなちゃん時代に身についたのかもしれないけど見習うところが本当に多かったです。憧れでした。

だからこそ、草津で教えてもらった「メイク落としはベビーオイルが最強」とかも見習ってそこからずっとメイク落としはベビーオイルですよ。

ディズニーで私も写真撮りたくて、デジイチも買っちゃったし。お正月のパークでパレード待ちしてる間も、カメラの設定をどうしたら綺麗に撮れるか検索しまくって試して、夜はちょっとまだ難しいね、また次挑戦しようと言っていたのに。

やりたいことはいっぱいあったよ。直近のシーもそうだけど、ばんちゃんが英語を勉強しているから英語圏にも一緒にいこうと言ってたし、私はスペイン語を少しだけ勉強しているからスペインでバル巡りもしようって話していたし。

お互い独身で、フットワークも軽くて(プロレスは誘ってもらっていたけど怖くて結局行けなかったな)一緒にいて楽しい人はそういないんだよ。

行動力が半端なくて、ディズニーも食事会も飲み会も結局全部ばんちゃんが企画してくれてたなって思います。お通夜でお母さんも、姉御肌だったって言ってたけど、私にとっては年下の可愛い女の子ってのが大前提にあって、頼れる子だったのは間違いないけど、姉御とかおねーちゃんとか思ったことはなくて。

だからか、「こんなのチナちゃんしかいない!」と何度か言われて、私は「?」と思っていたけれど、私にとってもばんちゃんは、やっぱり唯一無二だったよ。寂しいよばんこ。

パーク内で、当日キャンセルのレストランとかもばんちゃんが一生懸命とってくれて「5Gマジですごい」とあまりにも推すから、9月のインパに向けて私も5Gの機種に変えたんですけど。

お通夜と告別式に参列しました

雨の心配はしてなかったけど、思いっきり晴れたとても暑い夏の1日でした。

ばんちゃんのお姉さんから連絡をいただいた時は、お通夜も告別式も伺う予定でしたが、コロナ禍ということもあり、お通夜だけにしようと、あやかと話して、お通夜に参列しました。

コロナ禍なので、ばんこが安置されているお部屋には、親族の皆さん。私たちは隣の別室にてモニター越しでお経を聞きました。

お通夜では、お母さんと少しお話ができました。10〜20代の時には何度か(しかも朝方・・すみません。。)お会いしたことがありますが、最近は一度、バンちゃんのお家に行った時に会釈くらいしかしていなかったので、「OYSTARSの追っかけを一緒にしてて・・」と自己紹介をしたら、「おいすたーずの!!!」と驚かれてました。そんな懐かしい人が来るとは思ってなかったのかもしれません。

でも、最近もディズニーに行ってること、ばんちゃんがディズニーに行くようになったきっかけの話をすると、知らなかったわ〜といいながら、ベビィちゃん(愛犬)の写真を見せてもらったり、追っかけ時代の懐かしい話もしました。

お通夜に行かなかったらお母さんとお話しできなかったら行ってよかったなと思いました。

 

事前に調べていた、お通夜でのマナーとか過ごし方とか、思い返せば全然できなかったなと・・まず受付で「この度は御愁傷様です」も言葉にならなかったし、お顔をみるときも、見れない見れない・・となかなか近づかないし、近づいたら近づいたで離れないしで・・申し訳ない。。です。。

号泣して、でも、お別れの言葉もちゃんと伝えて、お通夜でお別れするつもりだったのですが。その夜、るいちゃんが告別式行こうかな思ってると連絡をくれたので、一緒にいこうか? と何も考えずにメッセージを送り、告別式にも参列することになりました。

9:30開始だったのですが、これもまたネットで調べると、開始30分くらい前から受付をするとのことだったので、9時に待ち合わせをしたのですが、一番乗りでした・・。

でも、おかげで、ばんちゃんとゆっくり話せました。また来たよーって。お線香をあげた後たくさん話しました。

お通夜では一杯一杯だったけど、告別式では、東京に来られないみんなから託された想いも伝えられたと思っています。

告別式も、お経は隣の別室でモニターを見ながら聞いてたのですが、20名弱の参列者は、時々隣の人と小さな声でばんちゃんとの思い出を話しては、少し笑って泣いてました。

そうだよね、ばんちゃんとの思い出を話せば笑顔になってしまうよね。と思いました。

お焼香をして、棺に溢れんばかりのお花を入れて、最後のお別れをしました。

ほんと・・親より先に死んだらダメです。ほんとダメです。

みんなで棺を閉めて。喪主のお姉さんからのご挨拶があり、車を送り出しました。

真夏の青い空に溶け込むように旅立っていきました。告別式も参列してよかったです。

7/30にワクチン接種2回目を終わらせて。巷では抗体ができるまで2週間とか言われてますが、厚生労働省のサイトには、ファイザー製は7日経過後とあるので、

8/6ならちょうど7日目だし、もちろん感染対策しながらなので大丈夫だと、参列させていただきました。

どうしても、「仮にこうしていれば」は浮かんで来ちゃいます。ワクチン接種2回目打てたよってLINEしていたらとか。最後にLINEしてたのは7/28だったので、その後も、普通に連絡できたことあったろうにと。

「それが運命だったんだ」という言葉は、故人のためではなく、残された人に、先人が作ってくれた言葉なんだと思います。前に進むために。甘んじて受け取ります。ありがとうございます。私が何をしても変えられなかった、運命なんだと思います。

それでもね、やり残したことは多いけれど、30代から、再会して、直近まで一緒に遊んだ記憶も確定していた未来の約束も、ばんちゃんの短すぎる人生を彩る一雫になっていたんじゃないかと。よかったなって思ってます。

今週。。いつだろう。もう記憶が曖昧なんですけど、正直オリンピックもほぼみてなくて、そろそろ音楽でも聞きたいなと思ったタイミングがあって。

でも、うっかり今、ポルノとかワンオク(正直ポルノは色々微妙なところはあるけど。。既にばんちゃんとの思い出があるわけで)とか聞いちゃうと、その曲を聴いた時に、ばんちゃんが亡くなった「今」を思い出してしまうので避けようと。

じゃ、何を聞こうかなとなるとやっぱり、全曲もれなくばんちゃんとの思い出に繋がっているこの人たちを、CD引っ張り出して聞いてました。

4枚中3枚がサンプルのなのはなんでなんだろう。。。全然覚えてない。そして、3枚目のアルバム「THIS YEAR’S MODEL FROM THIS」のサインの意味がほんとわかんない。。。

歌詞は色々幼いなと思うところもありつつやっぱりいい曲多いし好きだしばんこおもいだすし、この曲を20年以上経ってからこんな気持ちで聞くと思ってなかったよ!とも思いました。「声が聞きたくて」とかっっ。

サブスクないんだもんなー。

ばんちゃん、長い間本当にありがとう。悔しがって、「ちがうの!ちがうの!!」とか言いながら、もしかしたら、まだ駄々こねてるかもしれないけど。

そっちでも、「新人でーす」とか言いながらあっという間に友達作って輪の中心にいるのでしょう。私がそっちに行ったら「あっ。ちなちゃーん!遅かったじゃん。」って言いながら、そっちの世界の楽しいところとか美味しいご飯とかいっぱい連れ回してください。楽しみにしています。

無許可掲載。Noindexにしてるから許して。左の写真は1997の出会った頃ではないけれど。あやかから送ってもらいました。右の写真、ばんこのリップの赤さがわかるでしょ?

その後

告別式終わって、このブログも書き終わって、心の整理とかできるかなと思ったら全然でした。

告別式までは、ばんこのこと思い出しては、友達にメッセージを送ったり電話したりして、とにかく誰かに話したい状況でしたが、告別式後は、逆に話したくない気持ちになっています。

不思議。

ばんちゃんのことを思い出しているわけじゃないのに涙が出てきます。本当に涙腺がバグってる感じです。

家にいるとずっと泣いているので、気分転換に、これまたこのタイミングでなんで? と思うんですけど、誘っていただいたライブを見に、久しぶりのライブハウスに行きました。

しっとりとしたジャズを聴きながら、一人涙を流す東京の女にでもなってみようと思ったのですが、対バンの人含め、お客様私だけで(苦笑)

一番後ろの照明の当たらないところで泣きながら音楽嗜んで、ひっそりと帰ろうと思っていたのに、照明の当たるめっちゃいい席に案内されてしまいました。泣いてたら完全に変な人だ。。と思うんですけど、特に対バンの方(全然知らない人)の全然知らないMCの時とか勝手に涙出てくるものだから大変でした。

ライブ後は、少しだけお話しして、帰ってきました。気は紛れた気がします。コロナ&台風&小田急線というトリプルコンボですが無事帰ってこれたし(コロナはまだわからないけど)うん。よかったかなと。

帰りの電車でも涙出てきちゃってやっぱ変な人でしたが。泣きたいわけじゃないんですよ。油断すると出てきちゃうだけなんです。

泣き過ぎで頭いたた。

明日でオリンピックが終わるらしいですね。東京オリンピックも後半見てないし、むしろ、東京オリンピックと言われたら人知れずばんこのことを思い出すんだろうなと思います。

タイミング悪いなぁもう。。喪失感がえげつないです。

このブログを読んだ母から心配するLINEが届きました。心配させまいと連絡しなかったんですけど、心配させてしまいました。

少しやりとりした後で、

「よかった。少しは元気になってきたかな。元気になって頑張って生きるのも供養になるからね」

ですって。

っっほんとうにもう。

このセリフを初めに言った人も、悲しみの淵から戻れない人に向けて、残された人が、残された人に向けて言ったのでしょう。

何でもかんでも「供養になる」って言えば受け入れると思うなよ!!とも思うけど(笑)そんな手を使ってでも、元気になって欲しかったのでしょう。暖かい言葉じゃないですか。

落ち込む心を、手を変え品を変え、鼓舞してきたのでしょう。先人たちの叡知を無下にはできませんね。

供養になるなら、頑張って元気にならないとですね。うん。頑張ろう。

まずは、ポルノグラフィティのツアーのエントリーかな。むん!

Diary

Posted by chinacky★